写真提供:竹内昭博 私たちの紹介文がパンフレットに載っていました。 |
今年のホノルルフェスティバルは第20回目のものでした。
太平洋に面した国々の文化交流を目的として、1994年に始まったお祭りです。
私たち、須賀よさこい連は、第一回目から欠かさず参加させてもらってきました。そんな団体は私たちだけなようです。故・國友須賀先生は、ホノルルは色々な人種の人たちが集まるところだからこそ、私たちは本当は一つなのだというメッセージを踊りを通して発信するのに、理想的な土地だと思い、毎年参加してきたのです。
私が初めてホノルルフェスティバルに参加したのは、2000年の第6回目の年のこと。14年前のことになりますね。17歳でした。
そのときのこと、まだ鮮明に覚えています。初めての海外旅行のために、パスポート作ったのもそのときでした。
須賀先生が、あるレッスンの後に「一緒にハワイに来て踊らんかね?」と声をかけてくれたのがきっかけでした。
その当時、私は摂食障害と外出恐怖症などと向き合っていた頃。学校に行けず(というか昼間は外に出られず)、家で自分で勉強してました。それでも毎晩スガジャズダンススタジオには通っていました。踊りに救われ、スタジオは私の駆け込み寺であり、聖域でした。
その初めてのホノルル遠征で、カラカウア大通りをパレードで踊りながら見上げた青空をありありと思い描けます。路肩では、心から声援を送ってくれるお客さんたちがいました。心の中にすーっとスペースが出来て、海からのそよ風がそのスペースを通り過ぎていきました。
生きているという気がしました。愛されていると感じました。ふっと軽くなりました。
今年は、10代後半の踊り子さんたちが何人か日本から参加してくれていました。彼ら、彼女らに会って話をしているうちに、17歳の私自身を見ました。
今年はその17歳のあかりと一緒に踊りました。彼女は私の前で、横で、そして私の中で踊ってくれました。とっても嬉しそうでした。そんな彼女に言いたくなりました。「今は辛い思いをしているかもしれないけど、ちゃんとそこを出て来られるから。トンネルの先にある光を見つけられるから。そして、あなた自身が光そのものであったことを思い出すから。それでも人生には辛いことがあるし、泣きたくなる日もあるでしょう。でもね、世界の喜びを凝縮した飴を舐めているような瞬間に立ち会うことの方がいっぱいあるから。だから大丈夫。さぁ、行こう。何も怖がることは無いよ。だって、私はいつだってここにいるから。」って。
地元の新聞のフェスティバルの広告 そこに私がいるのを、友人たちが見つけてくれました。 |
悠くん(國友悠一朗・須賀先生の長男)たちとお昼の後 |
朝の合同練習の後、マウイダンサーズと日本から来られたスタッフメンバーさんたちでお昼ご飯を食べました。
うれs
慎ちゃん(國友慎之介・須賀先生の次男)ポーズつけてます。 |
お昼ご飯の後は、時間を潰すため、ワイキキの埠頭でちょっとぶらぶらしました。
ダンスシスターズ(踊り仲間のお姉さんたち)大好きです。
そして衣装に着替え、いざ出陣!
肩流して着てて、たらちゃんかっこいい。
美香さんは持参していた靴が、ちょっと合わなかったため、途中で新しい靴を買いました。良いのが見つかってよかった。
写真:竹内昭博 |
さぁ、パレードが始まりました。
パレードの出発地点まで歩き、私たちの出番まで待機。
この5人が今年のホノルルフェスティバル参加のマウイダンサーズでした。
(左から:城崎から参加のおかみさん(とても面倒見の良い、場を盛り上げてくれる方です)、私、直ちゃん、美香さん、香織さん、タラちゃん)
今年の衣装のデザイン。
白は男踊りで、龍が描かれ、赤は女踊りで不死鳥が。
左が日本から参加したダンスインストラクターのなっちゃん。
今年のアテンドさんでした。初めての大役、立派にこなしていましたよ。
おつかれさま!
ちゃんと晴れてくれました!須賀先生、ありがとう。
日本から参加のカメラマンのたけちゃん(竹内昭博)。
(カメラマンも写真に写らなくちゃ。)
写真:寺西望 |
イエイ!
写真:寺西望 |
マウイダンサーズは総踊りバージョンを踊ったので、本踊りバージョンを踊るみんなとは振り付けが違います。なので前を踊るみんなにつられないように、出番前にもう一度確認。
写真:竹内昭博 |
さぁ、いくよ!
写真:寺西望 |
そう、このために!
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