Wednesday, April 23, 2014

JP - お知らせ


皆さんにお知らせしたいことがあります。

もう既に、家族や毎日会う仕事先の同僚、身近な友人達にはお伝えしたのですが、皆さまに敬意を示すためにも、誰かから聞くよりも先に、私の口からお伝えさせていただきたいと今朝強く思った次第であります。

このことを打ち明ける後押しをしてくれた友人達に感謝しています。やっと出来てほっとすると同時に悲しくもあり、そして全て大丈夫になっていくという確信も感じ、でもやっぱり悲しく、その度に力づけられ、決断が揺るがないものになっていくのを感じています。

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大切なお友達の皆さまへ

来年度(2014年から2015年にかけて)、教師の仕事を一時的に退くことにしました。

もう一つのパッション(情熱を注いでいるもの)である踊りを追求するためです。この決断は何年間か考えて辿り着いたものです。今まで生きてきた中で一番難しかった決断の一つです。これは教師の仕事が嫌になったからではありません。事実、それと全く逆のことが起こっていました。今年度が教師になって6年目の年です。教師として月日が流れるほどに、この仕事がどれほど意味深く、やりがいがあり、そしてどれだけ社会的に大切な役割を持っているかということをひしひしと感じています。時としてどんなに大変でも、ただ単純に子どもたちと毎日過ごせることが心から嬉しいです。彼らの日々の成長を見届けることや、彼らの瞳に宿る光を見ること、そしてこの世がどんなに素晴らしいものであるか何度も思い出させてもらうこと、それら全てを心から愛しています。なので、この決断を下すのはとても難しかったのです。

私は歩けるようになってからずっと踊ってきたように思います。初めてお給料を頂いたお仕事は、ステージ上で踊るというものでした(高校生の時のこと)。しかし、踊りをお仕事として追求するよりも、子ども達と働きたいという想いの方が何倍も強かったので、教師になる道を選び、踊りは趣味として続けていくことにしました。皆さんもご存知のように、私はインドの古典舞踊の一つであるオディッシィダンスを真剣に学んでいます。アメリカのボストンでインド人の父とユダヤ人の母のもとに生まれ、今はマウイのマカワオという町で教えている私の先生であるサララ・ダンデカーさんの元で学んできた過去8年間は素晴らしい旅路です。彼女とはここマウイで行われたあるイベントで出会いました。彼女はオディッシィダンスを踊り、私はよさこい踊りを踊ったのです。彼女の踊りを初めて見たときは、開いた口が塞がらず、心臓は鼓動を一つ飛ばしそうになり、背骨は溶けていきました。それから彼女のクラスに通い始めるのに、そんなに時間はかかりませんでした。

オディッシィダンスは技術的に習得するのが大変難しく、上達するためには忍耐とたくさんの練習が必要ですが、それに反して私の踊りに対する愛は深くなっていくばかりです。このブログを昨年読まれていた方はご存知かもしれませんが、昨年の4月には教師の仕事から一ヶ月お休みを頂いて、インドに踊りのために行ってきました。そこでサララ先生の先生である、グル・ジェーラム・パランザペ師の運営されている踊りの学校に通わせてもらいました。この一ヶ月のインド滞在は、「オディッシィダンスにどっぷり浸かりたい」という欲求を満たすどころか、より強いものにしました。インドでは大変有り難いことに、ジェーラム先生と先輩弟子の方たちと一緒にステージを踏ませて頂く機会に恵まれました。舞台脇からジェーラム先生のソロの演舞を見ていたとき、何かが心の奥深くに触れました。サララ先生が踊るのを初めて見たときと似た感覚でした。そしてそれは魂のより深いところで響きました。私は泣いている自分に気づきました。そのとき、私の顔はメイクで固められていました。特に目の周りは。そしてジェーラム先生の後にもう一曲踊る踊りがありました。メイクが台無しにならないようにと、涙を引き止めようとするのですが、次から次へと流れてきました。仕方なく取った手段は、顔を地面と平行にして、涙が重力により垂直に落ちるようにするというもの。そのとき、「あぁ、私はこんなにもこの古代から伝わる芸術を愛しているのだ。学びたいのだ・・・」と気付きました。

それからマウイに戻ってきて、教師の仕事に戻ってからも、その想いは少し足りとも薄れていません。自分自身と沢山の会話をしました。ある部分の私は、「教師の仕事でさえ何とか生計立ててやっているところじゃないか。その定期的に入ってくる収入を蹴るなんてどうかしている。」と言いました。そして別の私は言いました。「それは確かにそうだ。でもね、教えている限り踊りたいだけ踊れないのは事実じゃないか。今は、あかりは一人の身だ。自由に動けるときだ。何だって出来る。体だってまだ大変な練習も乗り越えられる。教師の仕事は、もう身体的に踊りが難しくなったときでもやれる。今じゃなかったら、いつだって言うんだい?ただね、あかりに後悔してほしくないんだ。今世息を引き取るときに、『あぁ、なんであの時踊らなかったんだろう』って思ってほしくないんだよ。」この最後の一言が私の心に深く根をおろし、決断に至りました。

ということで、踊らせて頂きます。全て何とかなると信じて飛び込んでいきます。インドに何ヶ月か金銭的に可能な限り行ってきます。(それ以外のときは、マウイでサララ先生のもとで踊っています。)貯金はしてあります。一年遊んで暮らせる程のものでは全くもってないですが。翻訳、通訳、オンライン上のビジネス、家庭教師などの仕事をしながら家計は切りもっていくつもりです。

踊るときは、いつも子ども達を心に踊ります。彼らが心から笑って、心から安心して暮らせる世界を作れますようにと。

これを書いている時点で、まだあと一ヶ月ほど子ども達と過ごす時間はあるというのに、もう既に教室を去ったときの痛みを感じます。あの鈴が鳴るような笑い声と、イタズラ好きな笑顔と、光に充ちた瞳たちを。彼らと一緒にドッジボールをして遊んだり、手つなぎ鬼をした思い出を恋しく思うでしょう。一緒に本を読むことや、算数の問題の解決法を考えること、遠くや近くの世界について考えを馳せ、話し合うことも。「先生、サンダルの鼻緒が切れた」とか、「あかり先生、歯が抜けた」とか、「ミス・ウエオカ、アイラブユー」と言ってくれる声たちを。これを書いていたら、ちょっとコンピューターの画面がぼやけてきました。涙が目に溜まってきて。でも今回は顔を地面と平行にさせたらキーボードに涙が落ちるので拭きます!

それでも私は夢を追うことにします。教え子たちも彼らの夢を追ってくれることを祈りつつ。いつも私を支えてくださり、必要なときにそこにいてくださる、そんな皆さまがた、誠にありがとうございます。2012年の4月に行われた私のオディッシィダンスの免許皆伝式で両親が話したスピーチの一部を引用し、この手紙を締めくくらせて頂きたいと思います。それが私の皆さまに対する気持ちを、実に上手く要約してくれていると思うので。「18歳までは私たちがあかりを育てました。それ以降は、マウイ島と、マウイの皆さまがあかりを育ててくれました。あかりが今日こうしてここに、このような形でいられるのも皆さまのおかげです。本当にありがとうございます。」

そうです。これを読んでくれているあたなさま無しには、私は今日、このような形でいられないでしょう。

心からの感謝を込めて。

上岡 安佳里

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